作者名、画題、国宝・重要文化財指定、制作年代?、材質、技法、寸法、所蔵者の他に、署名落款印章を掲載した印譜、作品の見どころ等詳細な解説、論考テキストを収載。
【目次】
図版
浦上玉堂 脇田秀太郎
文献/資料 脇田秀太郎
落款/印章
作品解説 脇田秀太郎
年譜
参考文献
挿図リスト
【図版目次】
●原色図版
東雲篩雪図 神奈川 川端康成記念会
一晴一雨図(部分)
一晴一雨図
山紅於染図
奇峯連聾図(如意道人蒐集書画帖の内)東京 出光美術館
吟客舟行図(如意道人蒐集書画帖の内)東京 出光美術館
艇子載春図
山雨染衣図
秋山晩晴図
山霊出雨図
双峯插雲図 東京 出光美術館
双峯插雲図(原寸部分)東京 出光美術館
雲与霞乎図(煙霞帖第一図)東京 梅沢記念館
溪橋抱琴図(煙霞帖第二図)東京 梅沢記念館
幽谷茂林図(煙霞帖第三図)東京 梅沢記念館
棄日留夜図(煙霞帖第四図)東京 梅沢記念館
溪上読易図(煙霞帖第五図)東京 梅沢記念館
穿幽透深図(煙霞帖第六図)東京 梅沢記念館
水流花謝図(煙霞帖第七図)東京 梅沢記念館
青山紅林図(煙霞帖第八図)東京 梅沢記念館
松風秋水図(煙霞帖第九図)東京 梅沢記念館
問津者乎図(煙霞帖第十図)東京 梅沢記念館
渓間釣詩図(煙霞帖第十一図)東京 梅沢記念館
山渓欲雪図(煙霞帖第十二図)東京 梅沢記念館
南山寿巻
平田山水図
山中結鹿図
江山覓句図
寒林間処図
野橋可立図(部分)
野橋可立図
風雨浅水図
山翁嘯咏図(部分)
山澗読易図
山澗読易図(部分)
秋山吟嘯図
幽澗泉石図(部分)
幽澗泉石図
山中無事図(鼓琴余事帖第一図)
水亭取涼図(鼓琴余事帖第二図)
天寒遠山浄図(鼓琴余事帖第三図)
遁跡入隠図(鼓琴余事帖第四図)
卜世三十図(鼓琴余事帖第五図)
雨後絶涼図(鼓琴余事帖第六図)
満江風煙図(鼓琴余事帖第七図)
山松横翠図(鼓琴余事帖第八図)
秋江泛舟図(鼓琴余事帖第九図)
風高雁斜図(鼓琴余事帖第十図)
秋色半分図
●単色図版
南村訪雪図 岡山県立博物館
秋江釣艇図
小立背橋図
夏山雨余図
深林絶壁図
雲蒸寒潭図
松風洗心図
青松丹壑図
秋江独釣図
深洞龍眠図
静見秋山図
水亭多愁図 埼玉 遠山記念館
雲結莫陰図
山中読書図
渓声書声図
緑染林皐図
曳杖野橋図
雨後観山図
雲烟糢糊図(書画四点一幅部分)
夏雲欲晴図(書画四点一幅部分)
長相思書(書画四点一幅部分)
酔月狂花行図(書画四点一幅部分)
万籟千畳図 滋賀 布施美術館
雲山静望図
籠煙惹滋図 東京 出光美術館
雲山欲雨図
山雲欲起図
林間間事図
清?涼馨香図
煙雲空濠図 埼玉 遠山記念館
高下数家図
深山幽屋図
煙雨糢糊図
峯雲踏遍図
雲山糢糊図
平遠奇峯図
天長路遠図
酔雲醒月図
深山渡橋図
同知必登山
黄松琴処
緑陰亭 東京 梅沢記念館
左琴右書
描山水以掃俗
浦上春琴筆玉堂寿像自賛詩
浦上春琴筆 玉堂寿像(部分)
佐野龍雲筆 浦上玉堂先生肖像(部分)
【協力】
五十嵐竹雄
出光美術館
宇野信吾
梅沢記念館
浦土定司
浦上繁雄
大原美術館
大山不二彦
岡山県立博物館
岡山県総合文化センター
岡山大学附属図件館
岡山美術館
笠片京一郎
蒲茂雄
川端康成記念会
久津式治
熊崎応右衛門
壷中属
塩山剛
橘宣忠
大雄寺
東京国立博物館
遠山記念館
寺島啓
野川信作
布施美術館
二村喜代?治
正宗文庫
万葉洞
藪本公三
山科杏亭
龍川清?
【凡例】
一、本巻では、浦上玉堂の作品と共に、玉堂とかかわりの深い作家の作品を若干収録した。
一、作品は原則として全図を収録したが、部分図を掲載した場合には、挿図、その他で全図を示すようにした。
一、画題の名称は、一般に通用しているものに従ったが、なかには執筆者が選定、命名したものもある。
一、図版ネームは、図版番号、作者名、画題、指定、制作年代?、材質、技法、寸法、所蔵者の順に記載した。
一、制作年代?は、明?確なるもののみ表記し、推定年代?は表記しない。
一、所職者の表示は、国、博物館、美術館、寺社、学校など公共機関にのみとどめた。
一、藩款/印章は、本巻に収録した作品で俳成し、執筆者によるおおまかな推定年代?順にならべてある。なお、図版を原寸大で掲職した作品の落款/印章は除いた。
一、引用文献は、原文が漢文の場合は原則として原漢文文のあとに読み下し文、もしくは訓読符号を附した。
一、本文中、第五章の玉堂伝補遺は当初、資料の一環として書かれたものであるが、網集上の都合により本文にくり入れた。
一、本文、作品解説中で(図…)は、原色図版および単色図版の図版番号を、(挿…)は、挿図の番号を示すものである。
一、年表における年齢は「数え年」を用いた。
【第一章 玉堂の頃の画界】より一部紹介
どういう情勢の画界の中にあって玉堂は生きたのであったか。琴士であり、また逆士風の性格でもあった玉堂の場合といえどもその絵画を考える場合、時代?的環境を全然無視することはできないので、まずこれを略記することにする。
そもそも江戸?時代?といえば二百六、七十家の大名とその統一者が確定し、武家政治の体系が完成して封建的に安定した時代?であったと略言できる。ところでその武家もおいおいに経済面で町人との関係か深くなり、そのうえ太平であったのでだんだんと市民的になっていったのであるが、この時代?の社会の秩序を支えたのは。「格式」であったのだ。身分ひいては権威を付与するために、あらゆる分野にわたってそれぞれ格式づけた家を中心として統御させることが、全封建体制を保持するための巧妙な仕組みであったからである。そして絵画の領域では、狩野派が武家の式正の絵としてすでに桃山時代?から秀吉や家康という権力者に結びついたのであったが、江戸?初期から狩野探幽(一六〇二~七四)、尚信(一六〇七~五〇)、安信(一六一三~八五)が―のちには常信の次男岑信も―奥絵師という職名で格式づけられ、確固たる地位を得て大いに威勢を張ったのである。この奥絵師の一族や門人が独立して一家を構えた十五軒の狩野家も、表絵師格で―御家人格として幕府から二十人扶持を与えられ―これまた羽振りを利かせたのであった。そのため全国の諸大名のお抱え絵師たちも、たいていはこの狩野派の画家であったのだ。
次に江戸?封建文化時代?の文化史上の特徴としてはまず国民経済の発展、それに伴う庶民文化の興隆、殊には世俗芸術の隆盛である。当代?は政治的にはもちろん、幕府の統制下における各大名の管轄地単位であるが、封建社会の経済的基盤である自然経済が、貨幣経済あるいは商品経済のために大いに崩され、したがって経済的、文化的関係は各管轄地域をこえて全国的に拡がったのである。「商人は治めらるるの法なるに、今は町人が人を冶むる世の如く」(『塵塚談』)なって、経済力による町人台頭の時代?であったことは断るまでもない。かくて「町人も楽しみということを知る時節」(『塵塚談』)となったので芸術全般も室町時代?のそれのような禅僧好みの、あるいは現実逃避風のものではなく、といって桃山時代?のそれのように大名好みの、あるいは殿堂的なものでもなくなり、格段に一般向き、また家庭的なものとなり、国民全般にぐっと近づいてきたのである。そして造型芸術すなわち美術のうちでは、もっとも普及性に富む絵画と工芸の時代?であったのである。
さて。江戸?時代?の絵画といえば右記のように幕府によって格式づけられた家柄のおかげで狩野派が羽振りを利かせたのであるが、それもしかし、なにぶんにも新規はすべて法度であり、父祖の遺法を守ることか美徳とされた時代?であったので、狩野派もやがては格式に安住の気持と共に日を追って芸術的には無内容の索漠たるものとなっていったのである。つまり、個人の人格と遊離した形骸化した格式となったのである。だから江戸?時代?後期に興った、たとえば在野の気安さの表現であり、また観念的に理想の楽園に遊んだ南宗画(わか国では略して南画という)や、一時は画ではなく図だときめつけられたこともあった当時の画手本主義に反対して立った写生派の円山派、それをアンティームにし、より感覚化した四条派、中国風の円山派ともいうべき南蘋派(発生的には応挙が南蘋に示唆されたのであるが)、さては俗画として軽蔑されたのだったが版画によるブロマイドその他の浮世絵などのほうが、芸術性もより豊かで興味深かったのである。
さて、鴨方藩士浦上玉堂の出奔は、寛政六年二七九四)五十歳の時であったがここで当時の画界を一瞥してみよう。
「絵は応挙の世に出て写生といふことのはやり出て京中の絵が皆一手になった事じゃ」(上円秋成『胆大小心録』)といわれた円山派の祖応挙(一七三三~九五)(插1)も死没一年前?で六十二歳、門弟の唐?美人に名を得た駒井琦(源琦-一七四七~九七)四十八歳、異才長沢蘆雪(一七五五~九九)四十歳、和美人を得意にした山口素絢(一七五九~一八一八)二十六歳、斯派を江戸?に広めた渡辺南岳(一七六七~一八一三)二十八歳。この円山派をアンティームに、より感覚的にした呉春(一七五二~一八一一)四十三歳、その門弟で狂歌をも能くした長山孔寅(一七六五~一八四九)三十歳。「画師は文晁、詩は五山……」と端唄にまでうたわれた谷文晁(一七六三~一八四〇)は三十二歳の壮年であったが、この南画畑には(以下略)
【作品解説】より一部紹介
1 東雲篩雪図
国宝 紙本墨画淡彩 一幅 一三三・四×五六・二cm
神奈川川端康成記念会
雪景山水でこんなに全画面のうす黒いのはないであろう。実はそうなったところに玉堂の作画態度が、絵画観の特質がのぞいているのである。雪景を傍観的に、あるいは観念的に描いたものではないのである。雪景山水という「画題」を描いたものでは毛頭ない。このことは、たとえば広瀬台山にも「凍雲欲雪」という作品が遺存するが、これは構図も描法も完全にいわゆる南画風で、描かれている各物象を素材にして雪景を想像するよう求められるような画である。玉堂のこの画のように、画中に引き入れるようには描かれていない。
玉堂の場合「東雲篩雪」という四字が―ちなみにこの題詞は最初「東雲篩」までを淡墨で書き、それをなぞって濃墨に直している―まずこれを明?示しているのである。すなわち満天の雲が雪を篩うのだというそれ自体を、すなわち画題ではなくそれ自体を描破しようとしているのである。だから満幅陰々として暗澹にもなったのである。しかも針のように鋭い神経が突きささってくる感じだ。寝そべって呑気に見うるような画ではない。おそらくは山中での雪の体験を描いているのである。逃れようのない雪の重圧を描こうとしたと言ってもよい。とにかく雪の山中に身をおいての実感を出そうとしているのである。そういう意味で自然に直結しているのであり、この点で作画態度が通常の南画家とは大いに違っているのを知る。へきなのである。六十歳代?後半頃の筆であろうが、玉堂画では大作であるばかりでなく、代?表的な傑作とみるに異論はないはずである。
ちなみに東雲の東は方角でないことは言うまでもなく同韻同音として凍に通わせたのである。ところでその凍雲だが、常識的には冬の寒い雲かと思われるであろうが、実は寒い暑いには元?来関係なく、雲の状態を指す語であったらしく中国の画論に古くからある言葉なのである。すなわち宋?の郭熈の『林泉高致』に、
水不潺湲謂之死水雲不自在謂之凍雲
水潺湲せず之を死水と調い雲自在せず之を凍狠と馴う
との規定がある。要するに、どんよりと張りついて動かない雲の意である。五山詩僧月舟寿桂の『幻雲稿』にも
「凍雲成雪」(張りつめた雲から雪がちらつきはじめた、の意であろう)の詩のあることを付記しておこう。ただし、春琴が『睡庵清?秘録』の李楚白の画帖のことを記したところに、画帖の各画題についてそれぞれ七絶を題しているのだが、その「凍雲欲雪」のそれに「凍雲欲雪続山腰…」とある。してみれば春琴も、凍雲を自在しない雲とは見ずに、寒そうな雲と考えていたらしい。
2・3一晴一雨図
重要文化財 紙本墨画淡彩 一幅
一七五・五×九四・五cm
神経周到の画で、淡墨の細筆で描く中景の疎林、楼閣、屋舎、濃墨で気随に処理する山頂、樹葉、土坡の用筆も意に従って的確である。だから輪郭だけの遠山もちゃんと画面にはまっており、送りの感じに役立ち、画を大きくしている。さらには、向かって右の遠山へかけての含蓄を深め、ム廴フマソにも寄与しているといえるであろう。要するに、大胆に似て意外に全幅の構想にも意が払われているのである。六十歳の半ば頃の筆であろうか。これも玉堂としては大作の一つで、実に危なげのない堂々たる善画である。
4山紅於染図
重要文化財 紙本墨画淡彩 一幅
三六・六×六五・五cm
横長の画面である。染めたよりも紅い山を、写実的に(岡山市の東北にある龍の口山一三百メートル足らずの山―を西方から見た図だとする人がいる)描いたものだが、満幅細線の渇筆仕立てで、それに各所に代?赭、雌黄を軽く掃いたものである。酔作とあるが、微醺が夾雑物を払拭して想を凝らすのに役立ったものか、調和のとれたのびやかな淡彩のスケッチで時代?を感じさせないものがある。つまり、創作態度が現今に通ずるのである。遠山を低く横一杯に連ねたのも拡がりを感じさせてこの場合適当であった。静かな気分と軽くさわやかな筆技からみて、七十歳頃の筆となしえようか。
5奇峯連聳図(如憲道人蒐集縊画帖の内)
一七九三年(寛政五)紙本淡彩
二七・五×一七・三cm 東京 出光美術館
並列した剣形の淡墨の峰々の頂を、群青や代?赭で大胆にくくっただけのきわめて簡朴なものである。画の上に、
飛鴻別寉入琴弾
把酒茆堂暫合歓
別後山陽若相思
天涯問此画中看
飛鴻別寉琴弾に入り
酒を把り茆堂に暫く合歓す
別後山陽を若し相思わば
天涯この画中に問いて看よ
の七絶を題し、そして「題画送如意道人遊西州玉堂琴士」(画に題して如意道人の西州に遊ぶを送る)とある。
別寉は別鶴で、楽府琴曲の名である。飛鴻もやはり琴曲の名であろうか。如意道人は、伊勢山田の人で氏は中村または高木で、如意道人とか白雲樵者の号がある。元?来は骨董商であるが、書画俳諧に多少の識見もあったら
しく、諸国の名家の書画を乞うて遊歴している。岡山から西下したのは寛政五年(一七九三)のことだから、玉堂時に四十九歳、脱藩一年前?である。
印章も四十三歳の時の筆「南山寿巻」(図25)のものと(以下略)